らくがきをしながら、コミック「げんしけん」をいっきに読む。
オタクサークルのひとびとの日常を描いた話なのである。
いわゆる「日常系」に分類される(サザエさん、もやしもん等)物語で、まあ何の発展も目的もなく4年間をすごす話なんだけど、人間観察力がものすごい。「オタクじゃない人にオタクが、オタクじゃない側にあわせながら話をするとどんな感じか」なんていう微妙な距離感をセリフでがっちり表現しきっているのである。
作者の木尾先生というのは「五年生」の人なんですね、あとで知って納得。その畑の人だったわけだ。
さらにこの作者は「語りたいことをちょっとしか語らずににおわす」ということに関して絶妙な匙加減をもっているのである。これが凄い。
斑目さんと春日部さんが部室でふたりきりになったときに、
「1年もたってるのに何意識してんだか
さっさと何か話すべ」
となって会話をしていくんだけど、どうにもちぐはぐで、話の最期に
「ある意味
一年たったからこそ
なのかもしれんなあ……」
となって終わる。
これが何かというと、斑目さんが春日部さんのことが好きだという意味なのである。
フツーはこんなんじゃ分からない。
ありがちなラブコメだったら、何かの拍子に手がふれあって、意外にキュンとして、「もしかして、俺……」となる。これならフラグとして分かりやすい。
けど「一年たったからこそなのかもしれんなあ」ではぜんぜんフラグではない。
フラグではないが、明確に分かるのである。
ああ、春日部さんが好きなんだなコイツ、と。疑問の余地なく分かるのである。
この技術は学んで手に入るものではない。
語らない、示さない、察させるというのがこの作者の得意技らしい。
滝本竜彦の「ネガティブハッピー」のときもそうだったけれど、読者というのは「明確に示さずにおわされた事実」というのに弱い。なんだか重要な事実のことのような気がしてしまう。
それは多分こういうことだろう。
現実世界はマンガと違って、なにも謎は明らかにならない。人間関係は自分の知らないところでこじれ、問題は自分の知らないところで発生しては解決し、だれも出来事のすべてを把握できない。
それが現実の残酷さである。
物語とは、この「現実の残酷さ」をなぐさめる愛撫のようなところがある。
本来なら、情報として提示されないから知りえないんだけど、まわりの風景、空気、なにげない仕草から「そういうことだったのか」と事実を発掘できるというのは、現実においてわれわれが渇望し希求することである。そーだったらいいのにな、とわれわれはいつも思っているのである。
だからこそ、「におわされた事実」というのに弱い。
しばしば語られる、「物語で本当に言いたいことは言うな」という教えの理由がこれである。
ま、そんなことができる作家はほんとうに少ない。
みなさまにはがんばっていただきたい所存である。
あと今日からはじめた銃のらくがき。
下のは15分くらいで描いた。
写真の模写からはじめたけど、銃を持つっていうのはやっぱりカッコいいですね。男の世界ですね。
